OOHニュース

【keyperson interview】メディアコンシェルジュ・大谷昭徳氏「OOHは企業が示したい姿勢や態度を表現する方法」【前編】
SPACE MEDIAを運営するミューカ代表・大塚省伍がOOH業界を牽引するキーパーソンの方々と対談を行い、変化の激しい業界の未来を創造する特集企画。
記念すべき第1回目の対談相手は、株式会社メディアコンシェルジュ代表・大谷昭徳氏。カンヌ国際広告祭金賞をはじめとした世界各国の広告賞で金賞に輝くなど、華々しい経歴を持つ大谷氏に、起業に至る経緯、実業家としてのターニングポイント、Withコロナ時代のOOHの在り方などについて聞いた――。
就職氷河期でビジネスを学ぶ方向にシフト
大塚:大谷さんはメディアコンシェルジュを立ち上げる前、僕の古巣でもある「オックスプランニング」(現・クラウドポイント)に在籍していました。同社で働こうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
大谷:大学時代、将来の道を二つぼんやりと考えていて。一つは起業。あの頃は第一次ベンチャーブームで、孫(正義)さんや三木谷(浩史)さんなどが頭角を現したタイミングだった。
だから、どんな業種であれ、会社を作ったほうが楽しそうという思いがあったんだよね。もう一つ、深い興味を持っていたのがクリエイティブ。でも当時、コピーライターをはじめとしたクリエイティブ職の人気はとてつもなかった。
.jpg)
おまけに僕が就活生だった頃は、就職氷河期。何社か大手企業から内定をもらえたけど、結局、希望するクリエイティブ職に就くことは叶わなかった。
そんな経緯から、クリエイティブへの憧れはいったん横に置いて、ビジネスを学ぶ方向にシフトした時に、就職先の選択肢としてあったのが「オックスプランニング」だったんだ。
もともとオックスとは、大学3年生の夏休みの時、所属していた学内のサークルの先輩で、後にサイバーエージェントを立ち上げる藤田(晋)さんから誘われ、アルバイトをしていた縁があったんだよ。
オックスはリクルート出身の人たちが作った会社なわけだけど、この時ぐんぐん業績が伸びていて、「ここでリクルートノウハウを学びたい」と思って。また、社長がリクルートを3年で辞めて会社を興していた影響もあって「自分も3年で会社を作る」と目標設定し、入社を決めたんだよね。結局、オックスには1997年から2001年までの4年間在籍していたかな。
大塚:その後、2001年7月にメディアコンシェルジュを設立したわけですが、事業としてOOH広告に注力するようになったのはなぜですか?
大谷:一言でいえば、唯一チャンスがあったから。映像をやろうと思えば、映像制作会社で学ぶ必要がある。CMプランナーになるためには、大手広告代理店のクリエイティブ局で修行を積まなければならない。
グラフィックは、美大などで長い期間かけて絵の勉強をすることがマスト。コピーライターになるには、とりわけ当時人気職種だったから、難関大学に入学して就職活動時に厳しい競争を勝ち抜かなきゃならない。
その中でたった一つ、そういうベースがなくてもつるっと入っていけたのが、OOHのクリエイティブだった。言い換えれば、クリエイティブな仕事ができる分野はどこかと逆算していった結果、OOHにたどり着いたとも言えるかな。
もう一つ、オックスでの経験から、外国人と仕事をすることにチャンスがあると気付いたのも大きかった。僕が起業する前後は、様々な外資系の広告代理店が日本に入ってきた時期。
そこで働く外国人のクリエイティブディレクターの多くは「いつかアメリカ本社に戻りたい」という野心を持っていて、その唯一の手段がカンヌで金賞(カンヌ国際広告祭金賞)を獲ることだった。要するに“賞”に飢えていたんだよ。
当時の外国人ディレクターは、テレビも雑誌もアダプテーションといって、アメリカ本社が作ったものを日本語訳するだけしか許されなかった。
一方で、OOHとアンビエントの分野だけは自由にして良いというルールがあったから、彼らはそこでクリエイティビティを発揮して勝負するほかなかったんだけど、その仕事を日本でどこの会社に依頼したらいいかわからなかった。
映像プロダクションでもないし、看板屋に頼んでも「うちは媒体屋なので」と断られてしまう。そこで僕は、彼らに寄り添って、その仕事に付き合うことにしたんだよ。

広告事例が初めて新聞の一面を飾った
大塚:起業1年目から順風満帆でした?
大谷:1社目の営業先がアディダスで、有難いことに受注ももらえた。その意味では順調だったかな。僕が起業した2001年は、ちょうど日韓ワールドカップの前年。個人的に、W杯オフィシャルスポンサーのアディダスが世界で展開している広告がすごい好きだったから、仕事がしたかったんだ。
その時、アディダスジャパンを介して紹介された広告代理店のディレクターに、ジョン・メリフィールドという人がいてね。僕が「ニューヨークやロンドンでやっているようなOOH、アンビエントを日本でやるために起業したんだ」と伝えると、ジョンは「お前みたいなやつと会いたかった」と言われ、手を組むことになった。
それからジョンとは、アディダスの仕事をずっと一緒にやっていくんだけど、彼も多くの日本にいる外国人ディレクターと同じように、カンヌの金賞を狙っていた。その目標を一緒に追いかける中で学ぶことも多くて、僕のクリエイティブの師匠を挙げるとするなら、ジョンになるかな。
メディアコンシェルジュとしての“デビュー戦”は、日韓W杯の公式球「Fevernova」の熱気球をお台場の空に上げる仕事。
.jpg)
その後に仕掛けた巨大なFevernovaが車に激突するアンビエント広告は、はじめて広告が新聞の一面に掲載される事例にもなった。
.jpg)
渋谷ハチ公前の東急東横店壁面に掲出した裸の中村俊輔さんの巨大ポスターに、ユニフォーム発表と同時に一瞬でそのユニフォームを着せるっていうスタントをした時は、渋谷が騒然としてた。

渋谷区から「裸はダメ」と言われたんだけど、どうしても掲出を続けたかったから「服を着せる施工上、裸にならなきゃいけない」と説明したんだけど、当然、撤去になった(笑)
.jpg)
.jpg)
後編はこちら
大谷昭徳氏 プロフィール

1974年9月28日生まれ。2001年7月、26歳で株式会社メディアコンシェルジュを設立し、現在20期目。同社の経営者を務めつつ、自ら企画及びディレクションを行う。カンヌライオンズ、ONE SHOW、クリオの世界三大広告賞をはじめ、数多くのコンペティションで金賞を受賞した経歴を持つ。
https://www.mediaconcierge.jp/
取材・文/小島浩平記念すべき第1回目の対談相手は、株式会社メディアコンシェルジュ代表・大谷昭徳氏。カンヌ国際広告祭金賞をはじめとした世界各国の広告賞で金賞に輝くなど、華々しい経歴を持つ大谷氏に、起業に至る経緯、実業家としてのターニングポイント、Withコロナ時代のOOHの在り方などについて聞いた――。
就職氷河期でビジネスを学ぶ方向にシフト
大塚:大谷さんはメディアコンシェルジュを立ち上げる前、僕の古巣でもある「オックスプランニング」(現・クラウドポイント)に在籍していました。同社で働こうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
大谷:大学時代、将来の道を二つぼんやりと考えていて。一つは起業。あの頃は第一次ベンチャーブームで、孫(正義)さんや三木谷(浩史)さんなどが頭角を現したタイミングだった。
だから、どんな業種であれ、会社を作ったほうが楽しそうという思いがあったんだよね。もう一つ、深い興味を持っていたのがクリエイティブ。でも当時、コピーライターをはじめとしたクリエイティブ職の人気はとてつもなかった。
.jpg)
おまけに僕が就活生だった頃は、就職氷河期。何社か大手企業から内定をもらえたけど、結局、希望するクリエイティブ職に就くことは叶わなかった。
そんな経緯から、クリエイティブへの憧れはいったん横に置いて、ビジネスを学ぶ方向にシフトした時に、就職先の選択肢としてあったのが「オックスプランニング」だったんだ。
もともとオックスとは、大学3年生の夏休みの時、所属していた学内のサークルの先輩で、後にサイバーエージェントを立ち上げる藤田(晋)さんから誘われ、アルバイトをしていた縁があったんだよ。
オックスはリクルート出身の人たちが作った会社なわけだけど、この時ぐんぐん業績が伸びていて、「ここでリクルートノウハウを学びたい」と思って。また、社長がリクルートを3年で辞めて会社を興していた影響もあって「自分も3年で会社を作る」と目標設定し、入社を決めたんだよね。結局、オックスには1997年から2001年までの4年間在籍していたかな。
大塚:その後、2001年7月にメディアコンシェルジュを設立したわけですが、事業としてOOH広告に注力するようになったのはなぜですか?
大谷:一言でいえば、唯一チャンスがあったから。映像をやろうと思えば、映像制作会社で学ぶ必要がある。CMプランナーになるためには、大手広告代理店のクリエイティブ局で修行を積まなければならない。
グラフィックは、美大などで長い期間かけて絵の勉強をすることがマスト。コピーライターになるには、とりわけ当時人気職種だったから、難関大学に入学して就職活動時に厳しい競争を勝ち抜かなきゃならない。
その中でたった一つ、そういうベースがなくてもつるっと入っていけたのが、OOHのクリエイティブだった。言い換えれば、クリエイティブな仕事ができる分野はどこかと逆算していった結果、OOHにたどり着いたとも言えるかな。
もう一つ、オックスでの経験から、外国人と仕事をすることにチャンスがあると気付いたのも大きかった。僕が起業する前後は、様々な外資系の広告代理店が日本に入ってきた時期。
そこで働く外国人のクリエイティブディレクターの多くは「いつかアメリカ本社に戻りたい」という野心を持っていて、その唯一の手段がカンヌで金賞(カンヌ国際広告祭金賞)を獲ることだった。要するに“賞”に飢えていたんだよ。
当時の外国人ディレクターは、テレビも雑誌もアダプテーションといって、アメリカ本社が作ったものを日本語訳するだけしか許されなかった。
一方で、OOHとアンビエントの分野だけは自由にして良いというルールがあったから、彼らはそこでクリエイティビティを発揮して勝負するほかなかったんだけど、その仕事を日本でどこの会社に依頼したらいいかわからなかった。
映像プロダクションでもないし、看板屋に頼んでも「うちは媒体屋なので」と断られてしまう。そこで僕は、彼らに寄り添って、その仕事に付き合うことにしたんだよ。
広告事例が初めて新聞の一面を飾った
大塚:起業1年目から順風満帆でした?
大谷:1社目の営業先がアディダスで、有難いことに受注ももらえた。その意味では順調だったかな。僕が起業した2001年は、ちょうど日韓ワールドカップの前年。個人的に、W杯オフィシャルスポンサーのアディダスが世界で展開している広告がすごい好きだったから、仕事がしたかったんだ。
その時、アディダスジャパンを介して紹介された広告代理店のディレクターに、ジョン・メリフィールドという人がいてね。僕が「ニューヨークやロンドンでやっているようなOOH、アンビエントを日本でやるために起業したんだ」と伝えると、ジョンは「お前みたいなやつと会いたかった」と言われ、手を組むことになった。
それからジョンとは、アディダスの仕事をずっと一緒にやっていくんだけど、彼も多くの日本にいる外国人ディレクターと同じように、カンヌの金賞を狙っていた。その目標を一緒に追いかける中で学ぶことも多くて、僕のクリエイティブの師匠を挙げるとするなら、ジョンになるかな。
メディアコンシェルジュとしての“デビュー戦”は、日韓W杯の公式球「Fevernova」の熱気球をお台場の空に上げる仕事。
.jpg)
その後に仕掛けた巨大なFevernovaが車に激突するアンビエント広告は、はじめて広告が新聞の一面に掲載される事例にもなった。
.jpg)
渋谷ハチ公前の東急東横店壁面に掲出した裸の中村俊輔さんの巨大ポスターに、ユニフォーム発表と同時に一瞬でそのユニフォームを着せるっていうスタントをした時は、渋谷が騒然としてた。
渋谷区から「裸はダメ」と言われたんだけど、どうしても掲出を続けたかったから「服を着せる施工上、裸にならなきゃいけない」と説明したんだけど、当然、撤去になった(笑)
.jpg)
.jpg)
後編はこちら
大谷昭徳氏 プロフィール

1974年9月28日生まれ。2001年7月、26歳で株式会社メディアコンシェルジュを設立し、現在20期目。同社の経営者を務めつつ、自ら企画及びディレクションを行う。カンヌライオンズ、ONE SHOW、クリオの世界三大広告賞をはじめ、数多くのコンペティションで金賞を受賞した経歴を持つ。
https://www.mediaconcierge.jp/
-
西武渋谷店前タクシー乗り場
公道上のインフラである タクシー乗り場に併設される広告媒体。
-
【渋谷】SHIBUYA SHUTTER AD
渋谷センター街に夜になるとあらわれるシャッター広告が誕生!
-
エア造形~壁面・屋上・支柱・吊り下げ・据置などの設置方法いろいろできます~
オリジナルデザインで大きさも自由に、立体造形のサインディスプレイで店舗や会場を装飾してみませんか?